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牧之原開拓の変遷
徳川幕臣・川越人足の入植
昭和初期の茶園
昭和初期の茶園
昭和初期の茶の栽培
昭和初期の茶の栽培
5代将軍徳川慶喜の駿府隠居に際し、江戸からこれを護衛してきた幕臣の一隊は、版籍奉還により失職してしまいました。
職を求めて八方奔走の結果、武士を捨てて帰農することにより、明治2年から牧之原に入植することになりました。

牧之原は幕府直領として放置されていたので誠に都合がよく、さっそく藩侯から1,400町歩の下賜(かし)があり、これを330戸が金谷原開墾方として金谷町、島田市、榛原町、菊川町及び相良町にそれぞれ分散し、月給を貰いながら開墾にあたりました。

また、大井川の川越制度が明治3年に廃止されたことに伴い、島田宿、金谷宿の川越人足1,300人が失職したために救済運動が起こり、この結果33戸が相良町、小笠町の305町歩にわたり入植しました。
その後の開拓
昭和初期の茶園の手入れ
昭和初期の茶園の手入れ
しかし、生活の激変、慣れない開墾の労働などで健康を害する者もあり、明治10年ごろから の茶価格の低迷のため、やがて不況に落ち込み、20年代には脱落者が続出しました。
明治半ばには、これら初期の開拓者に代わって地元農家が開墾の主役となり、対象初期には牧之原台地のあらかたの土地を拓き終わったのです。

全国の茶業中各地としての地位を築くためには、先人たちの血のにじむような努力があったことには言うまでもありません。
開拓になぜ茶を選んだか
昭和初期の茶摘み
昭和初期の茶摘み
昭和初期の製茶工場
昭和初期の製茶工場
江戸末期、安政の開国によりアメリカ等との貿易が始まったが、主要な輸出品は生糸と茶でした。
当時、欧米では茶の需要が急激に伸びている時期でもあり、また、幕府に代わった明治政府も殖産興業の立場から茶の輸出に力を入れようとしていました。

このような情勢にあって、開拓指導の主要人物であった勝海舟が栽培作物としての茶の選定に主導的役割を果たしたといわれています。
幸い、牧之原は気候、土質が茶の栽培に適していたことと、輸出というまとまった需要があったこともあり、徳川幕臣のほか、大井川川越人足も加わり、開拓が進められました。
蓬莱橋の由来
蓬莱橋牧之原開拓地と島田との渡河の頻度が増すに従い、その都度、大井川を小舟で渡らなければならず大変危険でした。
そこで島田宿の開墾人総代裁達は、時の県令(知事)に架橋の願いを出し許可されて、明治12年に完成しました。

全長897m、幅2.7mで、大井川の自然と一体となった木橋として今では全国的にも有名な観光名所となっています。
     
     
     
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